バスに乗っていこう!  作 キムドン

 
 「初めて一人でバスに乗せるので、心配なんです。だけど健大が『大丈夫!』というので一人で行かせます。お願いしますね。」

いつまでも終わらないお母さんの長電話に健大は痺れを切らしていた。

「もう行くよ。バスに遅れちゃうよ。」

健大は、リュックを背負ってさっさと玄関を出た。
 小雨が降っていたが、健大は傘もささずに雨の中をバス通りに向かって走った。

バスの停留所に着くとちょうど桜市バスセンター行きのバスがやってきた。 
 息を切らしてバスに乗った健大は、空いている一番後ろの席に座った。
 健大が座った途端、バスは動き出した。 
 窓から外を見ると健大を追いかけてきたお母さんが大きな声で叫んでいる。

 「健大、降りる停留所を間違えないでね。栄町一丁目だよ。」

「わかっているよ、おかあさん。」と健大は心配顔のお母さんに手を振りながら言った。

バスの乗客が健大とお母さんのやり取りを笑いながら見ていた。

健大は学校で「バスに乗って出かけよう」の勉強をして、自分一人でバスに乗って出かける計画を立てたのだ。行先は隣の桜市栄町一丁目に住むゆきおばさんの家。

健大は雨に濡れたバスの窓から、通り過ぎる街並みをしばらく目で追いかけていたが、いつの間にか目を閉じて寝てしまった。昨日の晩は緊張してあまり眠れなかったのだ。

 うとうとしていた健大の耳に「次は桜市バスセンター…」という運転手さんのアナウンスが入ってきた。
 健大が目を開けて、窓の外に目をやるとたった今、出発したバスの停留所の名前が見えた。
 停留所の名前は『栄町一丁目』だった。停留所の看板の前にゆきおばさんが立っている。

健大は「あーっ」と声を上げると思わず座席から立ち上がった。
 その途端、運転手さんが「バスが動いている時は席を立たないでください。」とマイクで注意した。

『どうしよう。次の停留所で降りて戻らなきゃ。落ち着け。落ち着け!」

健大は自分の心に言い聞かせた。 
 そして、バスが次の停留所に着くまで、バスの窓から見知らぬ街並みを見続けた。

 「次は終点の桜市バスセンター。」

運転手さんのアナウンスがあり、バスは、桜市駅前のバスターミナルに入っていった。

健大はバスを降りると、辺りを見回した。

ターミナルビルに入る道がいくつもあり、どの道が栄町一丁目にもどる道なのかわからない。 
 健大はその場に立ちすくみ、雨に濡れながら動けなくなってしまった。

「健大くん、どうした。」と後ろから声がして、黒い大きな傘が健大を覆った。

健大が涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔を上げると優しい笑顔のおじいさんが健大を見下ろしていた。

『あっ、まさじいちゃん?いや、まさじいちゃんとちがう。まさじいちゃんは去年、病気で死んじゃったんだ。でも、まさじいちゃんに似てる。話す声まで似てる。』

 「バスの停留所を乗り越しちゃったのか。健大くんの前の席に乗っていたから、お母さんとの話も聞いてたよ。栄町一丁目にもどるんだろう。」とおじいさんは健大に聞いた。

健大は泣き出しそうな気持をぐっとこらえて、「うん。」とうなずいた。

 「それじゃあ、わしについておいで。」とおじいさんは健大を覆っていた傘を閉じると、すたすたと歩きだした。雨はもうやんでいて、青空が見えていた。
 おじいさんはにぎやかな駅前通りにどんどん歩いていった。 
 そして、時々後ろを振り返り、健大が追いつくのを待ってくれた。

まさじいちゃんも健大と一緒に散歩する時は、いつもそうだった。

「バスや汽車の乗り越しは、わしもよくやったよ。仕事の疲れで寝てしまってね。お酒を飲んで酔っ払って寝過ごしたこともあったなあ。健大くんの場合とちょっと違うかな。ははは。」とおじいさんは口をあけて笑った。

健大も笑った。不安で暗く沈んでいた気持ちが晴れていた。

『さあ、健大くん。バス通りに出たよ。この大きな道をまっすぐ歩いて行ったら、栄町一丁目の停留所に着くよ。もう、一人で行けるかな。健大くんならきっとできるよ。」

 『健大くんならきっとできるよ。』この言葉もまさじいちゃんと同じだ。

『きっとできるよ。』の言葉を聞いた健大には、大きな建物が立ち並び、多くの車が行きかうバス通りが冒険の道に見えた。健大の胸の中はわくわく。ドキドキ。

 『よーし、栄町一丁目に向かって、スタート!』とおじいさんが大きな掛け声をかけた。

「うん、おじいさん、行ってきます。」

健大が力強く歩き出した道の向こうに雨上がりの大きな虹がかかっていた。