ヒゲのはなし
風子は夕焼けを見るのが大好きでした。
風子の住んでいるのは小さな炭鉱街です。
ズリ山に陽が沈むのを毎日、飽かずに眺めて暮らしていました。
ある日、風子の家に一匹の子猫がやってきました。
風子のお兄さんが拾ってきたのです。
でも、風子の家にはもう、大人のめす猫がいたのです。
その猫は、大変しっと深く新参者を快く思っていないようでした。
まだ小さな猫か甘えたいさかりで
そばによると、ツンとすましてうるさがります。
あまりしつこいと腹を立てピシャリと片手でたたきました。
そのめす猫は、子どもを産んたことかなかったのです。
風子は子猫に小さな鈴を買ってきて、首につけてやりました。
小さな猫は、背中が黒くておなかが白く、その上、鼻の下
ヒゲをはやしたように黒かったので”ヒゲ”と名づけました。
ヒゲは、一見するとネスミと間違えそうです。
よそのドラ猫が時々やってきては、ヒゲに襲いかかろうと、
すきをうかがっていました。
その時ばかりは、めす猫も、子猫に加勢してドラ猫を追っぱらう
のできっと、ドラ猫は、美人のめす猫にいいよるやくざだったの
かも知れません。
めす猫は、このあたりでは、ドラ猫たちの憧れのまとでしたもの。
風子はその時、本を読んでいました。
ちょうど、主人公が赤いサルビアの咲き乱れる小道をぬって、
お屋敷へ向かう場面でした。
突然、激しい鈴の音がしました。
”ギャオ−” すさまじい鳴き声。
本を投げ出し、あわててとんで行きました。
何ということでしょう。
恋のさやあてか、それともネズミと間違えたのか、
とうとうやくざ猫はヒゲを襲いました。
憎きドラ猫は目をらんらんと輝かせて、 ヒゲのかぼそい
喉笛にかぶりつき、振り回していたのです。
風子は、子猫を取り返そうとしましたが、猛り狂った
ドラ猫は、ヒゲをくわえたまま離そうとしません。
その時、めす猫がドラ猫に突進して行きました。
ドラ猫は恐れをなしたか、やっと子猫を口から離すとめす猫が、すぐさま後を追いました。
何もかも一瞬の出来事でした。
床に投げ出された子猫は、悲しくけいれんしていました。
それは、あまりに小さな命でした。
もうだめだと思いましたが、風子は白いビニ−ルのふろしきに
くるんで、獣医さんのところへ行きました。
獣医さんは、いませんでした。
ああ、風子は自分の不注意から、
こんなことになったのだと思いました。
悔やんでも、もう遅いのです。ヒゲは、死んでしまいました。
投げ出された本は、しばらく続きを読まれませんでした。
赤いサルビアと血の色が重なって、
風子は読むことができなかったのでしょう。
ヒゲは、風子のお兄さんがお墓に埋めに行きました。とても天気のよい日でした。
青い青い空を見上げました。
ソフトクリ−ムの様な白い雲がにじんでとけ出しました。
それは風子の流した涙のせいでした。
何もかも吸い込まれてゆきそうです。
風子は死ぬということは何と残酷な事だろうと思いました。
空があんなに明るく青いのは、そんなことはおかまえなしに
神様はヒゲを召してしまったのです。
やさしく風か吹きました。
いつもと同じように、ズリ山のむこうは、朱色に染まりました。
その赤は、ヒゲの流した血の色に見えました。
「ヒゲは、あの夕焼けのどこかに眠っているのね」
と、風子は思いました。
お寺の鐘がなりました。
赤とんぼが羽根をきらめかせながら、ズリ山の中に
とんで行きます。
空は、ますます赤くなっていました。