未完成の父の年譜


 平成8年の6月15日に私の父、木村吉雄は84歳にて永眠した。
 父が亡くなってから、父の身の回りのものを整理していたら、机の中から一冊の大学ノートが出てきた。

 開いて見ると、それは「三笠市幾春別140番地にて、大正元年10月1日、父勘吉、母ヤイの四男として出生」という文から始まる父の一生記であった。

 表題には、右上がりの癖の筆跡で「木村吉雄 略歴」とある。

 父は、亡くなる数カ月前から、病院で寝たきりの状態であった。
 入院する前も体調が悪く、机に向かって文章を書く場面など久しく見ることはなかった。

 しかし、ノートの文字は、しっかりしている。
 今となっては、いつかは分からないが、父がまだ元気な時に書き留めておいたものに違いない。

 次の行には、「大正6年より8年までの2ケ年の間に長男、次男、三男、そして母ハツ相次いで死去、そのため、木村家長男として成育す」とある。

 父は、生前、たった2年の間に起きたこの不幸な出来事について、私たち家族に話して聞かせることは少なかった。

 ただ、「俺は子どものころ親父(勘吉)から《シナンボウ》と言われ、酒を飲むと親父は俺に『跡取りはお前だ。しっかりせよ』とよく言ったもんだ。」とは話していた。

 《シナンボウ》は、「四男坊」のことでもあり、「死なん坊」のことでもある。

 父は、『跡取り』と言うとき、少し自嘲ぎみの表情をいつも見せていた。
 それは、『跡取り』として託されていた店を父の代でつぶしたからだ。

 しかし、「お前だけは死なずにいてくれよ」と言う父勘吉の思いはよく理解していたようだ。
 相次ぐ不幸の記事の後に、「この時、父勘吉は、42,3歳であったと思うが、どんなにか悲しんだか、父の心境を思うと感無量である。」という文が書き添えられていた。
 
年譜には、『母ハツの思い出』という項がおこされていて、10行ばかりの小文が書かれているが、思い出らしい話は何一つ書かれていない。

 父が物心がついた時には、次々と生まれる子供の世話に追われていた母ハツ、そして、又、次々と病死していく兄たちの看病、最後にハツ自身の闘病生活。
 死別したのが8歳であっても、母ハツの思い出が少ないのは、そのためかもしれない。

 『母ハツの思い出』の項は、「私は、母に甘えたり、叱られたりした記憶が余りなく、よく、父の肩車で町を散歩した記憶の方が鮮明に残っている。」という文で終わっている。
 
父の不幸は、この後も続く。
 妻ハツを亡くした勘吉は、ハツの妹ヤイと再婚するが、ヤイも若くして亡くなっている。
 父の年譜をたどっていくと、義母ヤイは、6人の子供を次々と出産するが、そのうち3人を乳児の内に亡くしている。そして、ヤイ自身も7人目の子供を死産し、その後まもなく亡くなっている。

 これらのことが、父の多感な少年時代に次々と起きているのだ。
 義母ヤイの死亡の記事の後に、『第二の母、ヤイに対する思い出』という項がおこされているが、その内容は、ハツの子供達の義母ヤイに対する反抗とそれに起因する夫婦間の争いについてがほとんどである。

 この項の終わりは「私は、義母ヤイに口答えする姉、弟の気持ちがわかりながらも、長男としての立場から義母に反抗も出来ず、常にもやもやと包み込んで我慢していたので、性格もいつしか暗くなり、母に対する甘え、愛情等が全く思い出として残っていない。」で締めくくられている。

 好々爺といわれて、のんびり余生を送り、その人の良さから家族や親戚からは、「苦労なく育った坊ちゃん。」と言われていた父であったが、この切々と書かれている父の年譜を読むと、子供の頃は決して幸せではなかったようだ。
 私たち家族の前では、晩酌の酒に頬を赤く染め、にこにこと楽しそうに子供の頃の昔話をしていた父であったが、実は母の愛情に恵まれずに育った子供であったことを知り、何か父がいとおしくなる思いであった。

 
義母ヤイとの死別後の年譜は淡々と略歴が書かれたあっさりしたものである。

 しかし、昭和7年、徴兵検査甲種合格、歩兵第25連隊入隊に始まる軍隊生活からの記事は、とても詳しく、また生き生きと書かれている。

 昭和20年敗戦までの15年間の間(20〜34歳)に父は、三度の招集を受け、敗戦時は台湾の屏東飛行場の警備中隊長であった。
 まさに、父の青春から壮年時代は戦争の真っ只中に会った。
 初年兵から始まり、敗戦に至るまでの記事はここに書き尽くせないが、それは、父の生死をかけた人生の中核をなす内容である。

 しかし、どういうわけか敗戦から後のページは空白で、父の年譜は昭和21年、20代前半の部下を引き連れての台湾から日本への帰還で終わっている。

 父は80歳を過ぎてから、めっきり衰え、病院への入退院を繰り返すようになっていた。
 この先も書き進むつもりであったが、それができなかったのかも知れない。
 又は、父の人生で書くべきことは、敗戦の時までと思ったのかも知れない。

 今、私はこの未完成の父の年譜をぜひ、完成させたいと思っている。
 私は、昭和22年生まれである。三男吉憲の誕生を書き出しに、父の思い出と重ねながら、少しずつ、書き進めて行こうと思っている。
 しかし、そう思いながら、今だに手付かずでいる親不孝の自分の尻をたたくため、この文を書いた。